日本の香り「香道」

01.17

《桜の頃 香の道》

春爛漫とさくらが咲き誇り、時折の風に花吹雪となって乱舞する一日、香の幽玄の世界に遊ぶことは、大変に風雅風流なことです。私は、一年の内このような一日とても好きです。古えの人々も、風雅天壌無窮のこのような世界に遊んだことでしょう。

現代のように大衆化する香道は、室町時代より始まったのですが、香木をたき薫りを楽しむことは、もっと以前よりありました。古来、日本(やまと)では、香は、天に宿す神に祈りを捧げるものとして焚かれました。このあたりは、現代流行している後世に作り上げた一般の香道の歴史と当家の伝承との違いでもあります。

後に、仏に供える香や身体に塗りつけて身を浄めるものとしての香が、大陸から伝来しました。此の世で、最初に香を盛んに奨めたのは、釈尊です。仏教の経典には塗香や焼香を奨めその効用が多く説かれています。これは、釈尊が、熱心に、香の効用を勧めたからです。

『日本書紀』推古天皇三年(五九五)には、日本に香木が漂着した事実が記されています。

推古3年の年(595年)、淡路島に、周囲が一抱え(約90cm)もある大きな流木が漂着したのです。島民がそれを蒔きにくべたところ、遥か遠くまでも良い香りがしてあたり一面に香霞が漂いました。これはただ事ではないと、朝廷に献上したのです。その流木を一目見た聖徳太子は、「これは沈水(じん)である」と言われました。そして、その流木で仏像をつくり、のこりを香木とされました。この仏像については、多くの伝承物語が、残されています。

「沈水(沈香)」とは、水中に完全に沈む香木のことで、「浅香」(せんこう)というのは、半分沈んで半分浮く香木のことであり、「浮香」とは、完全に浮いてしまう粗悪なお香のことです。

香りの世界は、平安時代、紫式部によって著された『源氏物語』に、薫物として多く登場し場面を飾っています。物語の進行と共に“かおり”のイメージが織りなす感性を大事にしています。書き手・読み手に共通の“かおり”のイメージがなくては、完成されない文学の世界が見られるのです。この感性は、後に、香が主となり背景に文学的教養を必要とする「源氏香」という香の世界を生みだします。又、三十六歌仙香など、和歌と香のイメージを一体化した世界として示現されいきます。

奈良時代、正倉院御物(760年)として奉納されている名香「蘭奢待」は聖武天皇(在位724~749年、崩御756年)の時代に中国からもたらせられました。


らんじゃたいの写真

【長さ156cm、太さ一番太い木元のところ約40cm、重さ11.6kg】


 また、唐からやってきた僧鑑真(753年)は練香の製法を伝えました。(練り香)とはいろいろな香木の粉などの香料を混ぜて蜂蜜などで練りかためて作ったものなのです。

平安時代に入ると、それまで仏教的要素として清めのための香が、貴族たちの間で日常的お洒落の道具として使われるようになりました。薫衣(くぬえ)香のように着物に焚き染めたり、薫物合わせなど社交的遊びが誕生しました。王朝文化で生み出された日本独特の香り文化の誕生でした。ここで使われたのが、(練香)です。現代でも再現できる薫りです。源氏物語に当時の貴族たちの薫物合わせの様子が残されています。

源氏物語「梅が枝」

明石の姫君(明石が生み、紫上がお育て上げた〈十一歳〉)を東宮の元服に合わせて入内させることとなりました。そのお支度の一つとして源氏の君は薫物の調合を思い立っちました。今の香木では、気に入ったのが見つからず、二条院の倉に仕舞ってあった伝来の名香木や、大宰府から献上された新しい香木からよいものを選りすぐり、六条院の女性たちや、源氏の君の女友達に届け、「薫物を二種類つくるように」と告げたのです。

 源氏の君は南の寝殿へ引きこもり、承和の帝(仁明天皇の事)の秘法で熱心に薫香を作っていました。この秘法をどこで会得されていたのか真にみごとな手習いでした。紫上は、東の対の放出(はなちいで)に、いく重にも屏風や几帳を張り巡らせ、実家の式部卿宮に伝えられた秘伝の方で調合をしていました。夫婦でも決して家々に伝わる秘密の製法を伺われまいと苦心するほどの大切な伝承だったのです。どの女君の部屋からも香木をつく鉄臼の音がしてまいり大変に賑わいでおりました。源氏は、香を燻らせるための道具も精巧を極めさせていました。小道具の中でも、香合の箱の形や壷、火入れ、などに特に意匠を凝らせました。その壷へおのおのの作ったものの中ですぐれた薫香を試みた上で入れようと思っていたのです。

二月十日の小雨の降る日に、兵部卿宮がやってきて、源氏の君と話をしている所に朝顔の斎院から、散りかけの梅に付けられた手紙と、出来あがった香が届けられました。薫香には
花の香は散りにし袖にとまらねど  うつらん袖に浅くしまめや
という歌が添えてありました。

源氏の君は
花の枝にいとど心をしむるかな 人のとがむる香をばつつめど

歌を返しました。
朝顔の斎院から香が届いたのを機に、女性たちの調合した薫香をとり寄せる使いが出されました.
「湿り気のある今日の天気が香を試すのに適していると思いますので。」

書き添えられました。

女性たちから、いろいろに調合され、こころいれに飾られた薫香が届けられました。

源氏が火入れなどを取り寄せ香を焚き試みました。そして、兵部卿宮に審判を託されたのです。この時初めて源氏の君の薫香も取り寄せられました。その薫香は、古来、右衛門府の溝川のあたりにうずめる約束でありましたが、源氏の君は、これに代えて西の渡殿のしたから流れ出る園の川の汀にうずめておきました。その薫香を、惟光宰相の子が掘って持ってきたのでした。兵部卿宮は「知る人も(君ならで たれかに見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞしる)でもありませんが。」と謙遜しましたが、同じ香の製法が広く伝えられていても、それぞれの趣味がそれに加わって出来あがった「薫香」を持ち寄りその薫りの良し悪しを比較して聞くことはまことに興味深い事でした。

どれが一番とも決められない中で斎院のつくられた玄方は心静かな趣に優れていました。侍従香という名の香では、源氏の君のものが優れていて艶で優美であると兵部卿宮がお褒めになりました。紫上おつくりになったのは三種ありましたが、中でも、梅花香は、華やかで若々しくそのうえ冴えた気の添っているのもでした。
「この季節の微風に焚き混ぜるのもとしてはこれに勝るものはないでしょう。」
と兵部卿宮はお褒めになりました。

花散里は皆の競争している中へ入る事などは無理であると、こんなところにまで内気さを見せて荷葉香を一種だけ作ってきましたが、変わった懐かしいかおりがたちました。冬の夫人である明石の君は、四季を代表する香は決まっているのだから冬だけを卑下させておくのもよろしくないと思い、薫衣香の製法の中にもすぐれた物とされている以前の朱雀院の法をもととして公忠朝臣が精製したと言われている百歩の処方などを参考にして作った香を届けてきました。製作に払われた苦心が感じられ、優美さの現れた豊かな薫りを持ち合わせたものでありました。

このように、どの香にも情ある判示を兵部卿宮がしたので、

「あなたは、あたり障りのない判示しかしないのですね」

と言って源氏の君は笑っていらっしゃいました。

月が出てきたので酒が座に運ばれてきて、源氏の君と兵部卿宮は昔の話をはじめておいでになりました。おぼろなる月の光の艶な夜に、雨の後の風が少し吹いて花の香りがあたりを包みなんとも幽玄世界の神秘の空間でありました。誰も皆しばし、この気持ちに酔っていらっしゃいました。

ここで見られます、侍従とか玄方とかというのは練香の名前です。現代でも茶の湯の世界では、この名称の練香は、頻繁に使われ、馴染み深いものです。しかし、本物とは、似ても似つかぬまがい物ばかりで、残念です。六種(むくさ)薫物といって、春は、「梅花」 夏は、「荷葉」(はすのこと。インドでは最高の花) 秋は「菊花」(日本・中国で最高位の花) それから、「落葉」「玄方」(冬の厳しさの感覚)「侍従」(少々色っぽい?)の六種類の調合が平安時代から伝わっています。調合の仕方は決まっていたのですが、それぞれに家に伝わる秘法があり、作り手の個性も加味され微妙に味わいが違ってできました。ですから、「だれそれの梅花香」とか、「なにがしの黒(玄)方」などと作者の名前をつけて区別しておりました。

また、練り香の秘法を受け継ぐのは代々女性で、男性は自分で研究するか、こっそり秘伝を盗むという代物でありました。

さてさて,平安も末期になりますと源平の合戦もはじまり、歴史の主役は公家から武家へと移ります。戦乱の世では士たちは宗教儀礼として戦の前に鎧兜に香をたきました。このあたりで、重要なのが武源三位頼政公の鵺退治の物語に登場する、銘香「蘭奢待」です。平清盛が、大和田泊を修築するなど、日宋貿易に力をいれ、民間貿易も盛んになった結果、中国から、大量の香木が輸入されました。その結果、戦と戦の間に香を練る悠長な時間がなくなった時、香木をそのまま焚くことが武士の間で広まりました。多くの秘伝を知らない武士にとって好都合でもあったのです。

このように、貴族に変わり、武士が時代をリードした鎌倉・室町時代には、、香木の純粋な香りを愛好する気風が芽生えていったのです。このことは、禅と一木一香を好んだ武士のについて、よく見極める必要があります。仏教信仰が、密教・浄土から禅・遊行へと移っていった時代、武士の尊んだ禅の精神に基づいた、幽遠枯淡な精神性を強調する風潮に一木をたく心がピッタリときたのです。絵画も水墨画が出現し、より精神性を強調する風潮が起こっています。香の道が、大和香道の祖聖徳太子当時の香木本来の香りを楽しむ方向へと戻っていったのです。。

香木に焦がれ蒐集に情熱を傾ける婆娑羅大名の出現、香木の繊細微妙な味を聞き取るの
に不可欠な火の温度調節をする銀葉もこの頃に使いやすいよう改良されました。香をより繊細に聞き分ける道具の改良が香の普及を一層加速させたのです。
香りの中に芸術性を見いだし、和歌や物語をはじめとする文学作品の感性と重ねて、香を聞く素地が出来た時代です。各自所蔵する香木を持ち寄り聞き比べをしたり、同じ香りを聞き当てたり、当時流行した連歌同様、香を焚き継いで行く「焚継香」に発展していきました。高価な香木を蒐集する婆娑羅大名の出現も、香の普及をより一層加速させました。

王朝文化、貴族世界だけで行われた香は、室町時代に入り、武家階級に急速に広まり香を焚き継いで行く「焚継香」や、各自所蔵する香木を持ち寄り聞き比べをする寄合香(寄り合い香)や、香りを聞き当てる「十柱香」も考案されました。現在行われる組香の原点も、この時期に誕生したのです。足利義政が中心となって興した東山文化のもと、茶の湯、連歌と密接な関連を持ちつつ聞香の道は発展していきました。

この銀閣寺を建てたことで有名な足利八代将軍義政公が、世に名高い六十一種名香を選ばれ、日本中の名香を一所に集中されたことは、徐々に香道の源を作り上げました。一応の大名となれば、名香の一種でも「馬尾蚊足」の微量をお守りのように大切にしたのです。茶道の名物と同様に、古来香人の格付けとされております。

“香”の世界は、芸道の内でも特に奥が深く理解しにくいものとされています。しかし、根本を理解し、正しい学び方をすれば真の楽しみ方を知ることができると思います。真の香りの世界を多くの方々と遊びたく思います。

『香霞への誘い』

『日本の香り』

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