『大和しうるわしWeb大学』(仮称) 開設ご案内

                 追加:予備教育内容公表

 

昨今の教育界の混乱・腐敗を目の当たりにし、あまりの情けなさに、やむにやまれぬ心にて、ここに、真の教育(人を教え育む)教育機関『大和しうるわしWeb大学』を開設することを、決定(けつじょう)致しました。2000年9月開校をめざし精進致し、多くの方々より、入学申請が送られてまいりましたが。残念ながら、真摯(しんし)に学ぶ姿勢態度の未だ至らぬ状況です。是非とも心より学ぶことの大切さ、よき師をさがす重要さをおもんばかり、与えられた課題を真面目に身につけていく固い決意のもとに、参加して頂きたく思います。現在入学申請済の方々には、予備教育期間として、数々の資料をお送りしてありますが、これから自分が学することの意味を中心に、一文をお送り下さい。入学試験にかえます。皆さんの奮起を望みます。数々の日本の秘伝を含む特別な講義の数々が始まろうとしています。学ぶ心を持った多くの方々の入学を望みます。志正しい者に、門は開かれています。新規入学希望者は、暫時、登録してください。一所懸命学問し、めでたく卒業証書を手にされることを望みます。新しい時代を拓くのは、あなたです。

 

漢代ごろに成立した教育機関としての大学の理念を述べた『礼記(らいき)』第42篇「大学」の本質を今一度心に納めておきたく思ったのです。、朱熹(しゆき)(朱子)は、「大学」を「初学の徳に入るの門」といい、学問の何がために必要かを解きました。注釈を書いて『大学章句』とし、臨終の数日前まで改訂し続けたほどです。『大学』は、孔丘(こうきゆう)(孔子)の言を弟子の曽参(そうしん)(曽子)が祖述した経1章と、曽参の意を門人が記録した伝十章からなります。

【経】 三綱領

「明徳を明らかにす」

「民を親(あら)(新)たにす」

「至善に止まる」

【経】 八条目

「物に格(いた)る」

「知を致(いた)す」

「意を誠にす」

「心を正す」

「身を修む」

「家を斉(ととの)う」

「国を治む」

「天下を平らかにす」

【伝】 は、三綱領8条目の補足説明です。

まともに人が人として生き抜ける道つくりのため、尽力致したく思います。まずは、日本人が日本人としてこの位の事は、知っておかねばならないということごとを、講義してまいります。そして、世界の一員としての立派な日本人に育っていただきます。 

難しいことばかり言って嫌われては、困りますので、日本の文化を通して、このような事も知っていけるのだというところで、特別に、予備教育内容を、物語っておきましょう。ご参考までに…・・。

 

 

 

 

第一講義

 二〇世紀最後の晩秋十三夜の月夜霊さまとともに 

 

 陰暦九月十三日夜のお月見を十三夜といいます。八月十五日夜の芋(いも)名月に対して豆名月といいます。後(あと)の月見ともいいます。どちらか一方のみをすることを、片月見といって忌み、関東などでは片月見は災いがくるといって忌んでいました。醍醐(だいご)天皇の延喜(えんぎ)十九年(919)に、清涼殿で月見の宴を催されたのが、公式行事での九月十三夜の始めとされています。『中右記(ちゆうゆうき)』保延(ほうえん)元年(1135)九月十三日の条に、明月の宴が催されたことが記録されています。福岡県糟屋(かすや)郡では九月十三夜を女名月といい、この日は、女が幅をきかすという風習が残っています。長野県北(きた)安曇(あずみ)郡ではこの夜を小麦の月見といい、この日の天気がよければ小麦が豊作だと言伝えられています。『徒然草(つれづれぐさ)』に、八月十五日と九月十三日は、二十八宿のうち婁宿(ろうしゆく)という日で、この宿は清明なので月を翫味(がんみ)するのによい夜と述べられており、室町時代の人々の心を、垣間見ることができます。八月十五夜と同じく、九月十三夜も果実類を無断でとってもよいという風習も各地に残っています。

古代では、十五夜の月の光によって一年の運を占っていました。現代でも、沖縄では、八月十五夜にフチャギという小豆(あずき)を表面につけた餅(もち)をつくり、集落全体が見渡せる小高い所に登り、月に照らし出された家々を眺めます。栄える家は暗く沈み、厄(やく)のある家は、家の中まで明るく見えると言伝えられています。岩手県、熊本県、岐阜県などでも、正月十五夜の晩、月の光に映し出された自分の影を見て、一年の運を卜(ぼく)していました。影に首のない者は、その年のうちに死ぬというのです。

 

 【十六夜の月】(いざよいのつき)いざよいとは、進もうとして進まないこと・ためらうことをいいます。陰暦一六日の月は、満月よりもおそく、ためらうようにして出てくるのでこの夜の月をいざよいのつきというのです。

【立待月】(たちまちづき)陰暦一七日の夜の月。特に陰暦八月一七日の月を、たちまちのつきといいます。立って待っているうち[たちまち]出てくるので、こう呼ばれます。[たちまち]という言葉が、すぐにという意味を持っている、語源です。

【居待月】(いまちづき)陰暦一八日の月のことです。また、枕詞として「あかし(明し・明石)」にかかる言葉です。

【寝待月】(ねまちづき)月の出る時刻が遅いため寝て待つところから呼ばれました。満月から数えて四日目にあたる、陰暦一九日の夜の月のことです。(陰暦二○日前後の月)蜻蛉上「ねまちの月の、山のはいづるほどに」

【臥待月】(ふしまちづき)出るのがおそいので臥して待つ月の意からの呼び名。陰暦一九日夜の月。(ねまちづき)と同じ。源若菜下「臥待の月はつかにさし出でたる」

 

【六夜待】(ろくやまち)二十六夜待の略です。

【二十六夜待】(にじゅうろくやまち)陰暦の正月と七月との二六日の夜半に月の出るのを待って拝することをいいます。月光に阿弥陀仏・観音・勢至の三尊が姿を現すといい伝えられ、特に江戸では七月に高輪(たかなわ)・品川などで盛んに行われた月待信仰です。

 

【月待】(つきまち)特定の月齢の夜、人々が集まって月の出るのを待ち、祀(まつ)ることを月待といいます。十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜などが多く、静岡県西部地方のように三日月を祀る所もあります。毎月祀る例は少なく、正月、五月、九月の三回、あるいは正月、一一月の一定の月を祀る所が多いようです。月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなど、さまざまです。日を一日ずらして、男子の二十三夜に対し、女子だけ二十二夜に集まり、安産祈願を行う所もある。長野県では七月二二日を「ニヤマチ」といい、七人ずつそろってするものだといいます。月待には安産祈願、病気平癒祈願など人にかかわるものが多いのも、月の満ち欠けが生命力に深いかかわりをもつと信じていたからです。

 

『つれづれ草』

 【第三十二段】

九月二十のころ、ある人にさそはれたてまつりて、明くるまで月見あるくこと侍りしに、おぼしいづる所ありて、案内せさせて入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうちかをりて、しのびたるけはひ、いとあはれなり。

よきほどにて出で給ひぬれど、なほことざま優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸をいますこしおしあけて、月見るけしきなり。やがてかけこもらしかば、くちをしからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らむ。かようなことは、ただ朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。

 

( 九月二十日のころ、ある人の誘いで夜明けまで月を見て歩いたことがあった。その人は少々思い出したことがあり、取次ぎさせて、ある家に入った。秋の盛りで、 荒れたる庭の露の多いに、わざとらしくない香の香りが、ただようさまは、たいそうおもむき深いものであった。男は程好いころに出てきたが、その家の女は出入り口を少し開けて、月を見ているように、男の去り姿を追っているのであった。もし、すぐに、家の中に引き込んでしまったらどんなにか、口惜しかろう。去った後、誰が後ろ姿を見ている者があろうと思うものか。このような優雅な振る舞いは平素の心がけによるものだろう。その人はその後まもなく亡くなってしまったと聞いた。)

 

【重要古語・難解箇所】九月…(ながつき) おぼしいづる所ありて…案内せさせて (ある人は)おぼしいづる所…お思い出しになる 案内…取り次ぎ 荒れたる庭…(秋の盛りで) 荒れたる しげき…(しげし)多い しのび…しのぶ(人目をさけてひっそり暮らす) なほ…さらに 優に (優なり)…優美に  妻戸…寝殿作りの四隅の両開きの戸 やがて…すぐに ましかば_まし…推量「まし」反実仮想 もし_であったら_だろう

 

日本の古典文学には、季節季節の風情が込められている。月夜の晩、しみじみと、香の薫りの中逍遥する楽しみは、格別です。

 「徒然草」の著者は、吉田兼好 (よしだけんこう )です。1283?_1352? 鎌倉時代末期_南北朝期の歌人です。本名は卜部兼好(うらべのかねよし)。吉田兼好は後代の呼び名であることは、『聖徳太子の「日本が沈む日」秘書「未来記」の真相』に語ったところです。1313年(正和2)にはすでに出家し、法名を「けんこう」と音読していました。出家前には堀河家につかえ、六位蔵人(くろうど)として朝廷に出仕ししていました。何度か関東へも行ったことは、「徒然草」からうかがえます。歌道の第一人者であった二条為世の門下で、二条家四天王のひとりといわれました。作品は「続千載集」「続後拾遺集」「風雅集」などの勅撰集に計18首がおさめられているほか、私撰集の「続現葉集」にも入集しています。晩年は足利幕府の執事であった高師直(こうのもろなお)に近づき、師直の恋文を代作して失脚する「太平記」の話は有名です。

 さて、「徒然草」は、何が為に書き残されたのでしょうか。そして、誰のために…・。そんなことまで、多くの伝承の残る大和古流です。

 

ここで、拙のとても好きな西行法師の物語の一節も紹介しておきましょう。秋の深まりから新しい歳のはじめへのものがたりです。

 

第二講義

【西行秘文】

『陸奥・平泉そして都へ』

陸奥を下り、白河の関で、能因入道が「都をば霞とともに立ちしかど、秋風ぞ吹く白河の関」と詠んだことが思い出され、とくに月がきれいだったので関屋の柱に、

 

  白河の関屋を月の洩るからに人の心をとむるなりけり

 

次の日関山を越えてはるばるいくと、時々雨が降る夕暮れに、

 

   誰住みてあはれ知るらむ山里の雨降りすさぶ夕暮の里

 

関屋をたって日数が過ぎたある日、野原で夕暮れを向かえ、廃屋を見つけ宿としました。夜が更けるとともに、月がきれいで、「月を見るたび、お互いを思い出しましょう。」と約束をした人が思い出され、

 

   都にて月をあはれと思ひしは数にもあらぬすさびなりけり

 

   月見ばと契り置きてし故郷の人もや今宵袖濡らすらむ

 

そうして壷の碑・沼館などという所をすぎていくと、ある野中で何か、いわくありげな墓があったので、、草を刈っていた男に、「あれは誰の墓ですか。」とたずねると、「実方の中将いう人の墓と聞いています。」とのことでした。あわれに思い、

 

   朽ちもせぬその名ばかりをとどめて置きて枯れ野の薄形見にぞ見る

 

   はかなしやあだに命の露消えて野辺にや誰も送り置かれむ

 

 悪路や津軽・夷が島・信夫の郡・衣川など名所を見ながらいくと、平泉という所に館をかまえる藤原秀衡という人がいました。

彼が和歌の道が好きときいていたので訪ねていくと、秀衡は喜んでもてなしてくれました。

あるとき秀衡が「恋百首を詠んでくれないだろうか。」というので少し詠むことにしました。

 

   立てそめて帰る心は錦木の千束待つべき心地こそせね

 

   身を知れば人の咎とも思はぬに恨み顔にも濡るる袖かな

 

   隈もなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな

 

   あはれとて人の心の情あれ数ならぬには拠らぬ嘆きを

 

   頼めぬに君来やと待つ宵の間はふけ行かでただ明けなましかば

 

   逢ふまでの命もがなと思ひしは悔しかりけるわが心かな

 

秀衡は四、五年もとどまっていきなさいといいますが、無益と思い秋の末に出て行きました。

 

ある片山陰の小屋にとどまっていると秋風が身にしみ、きりぎりす(こおろぎ)の声も弱っていきます。

    きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかり行く

 

都でなくても、年の暮れには皆、年越しの準備をします。

 

   常よりも心細くぞおぼえける旅の空にて年の暮るれば

 

   憂き身こそいとひながらもあはれなれ月を眺めて年の暮れぬる

 

新年が来ると、思い立って都の方に行きました。ある野中にきれいな青柳や、たくさんの梅を植えたところに花が咲き乱れたところがあり、立ち去りがたくそばの小屋にとまりました。

 

   一人寝る草の枕の移り香は垣根の梅の匂ひなりけり

 

   山賎の片岡かけて占むる野の境に立てる玉の小柳

 

 

こうして山々寺々を伝いいくうち、四月の初めごろ美濃国につきました。捨てたとはいえ都ことも知りたくありました。そのときホトトギスが鳴きながら過ぎました。

 

   ほととぎす都へ行かば言伝てむ越え遅れたる旅のあはれを

 

如何でしょう。二〇世紀最後の秋の月夜霊さまと時を共にしながら、やまと心のまことを感じて頂けたでしょうか。日本人の心の底には、とても深い想いがたくさんたくさん詰まっているのです。これが、長い歴史の上に立つやまと民族の伝統文化というものなのです。

豊四季のやまとの国大切にして下さい。

 

第三講義 

【無門関】 

無門関(むもんかん)は、中国、宋(そう)代の仏書一巻です。中国臨済(りんざい)宗の無門慧開(むもんえかい)が、禅宗の古則公案より48則を選んで頌(じゆ)を付した公案集です。1228年(紹定1)の成立で、慧開に参じた弥衍宗紹(みえんそうしよう)の編集になります。その第一則の「趙州無字(じようしゆうむじ)」の公案は重要で、宋代公案禅の極地を示しています。中国では、早くその伝本が失われました。は入宋(につそう)して虚堂智愚(きどうちぐ)に参じて得法した無本覚心(むほんかくしん)(1207_98)により日本へ初めて伝えられました。中世にはその存在が知られませんでしたが、、江戸時代に注目され、多くの注釈書が成立しました。そのなかでも、『無門関春夕鈔(しゆんせきしよう)』『無門関万安鈔(ばんなんしよう)』『無門関自雲鈔(じうんしよう)』『無門関西柏鈔(せいはくしよう)』などは有名です。《南泉斬猫》はこの、『無門関』第十四則にあります。Web上の《南泉斬猫》参じて頂けたでしょうか。一応、原文も身に修めておいてください。

さあ、ここからが、《大和しうるわしWeb大学》志をたてた方々との一騎討ちです。

 

 

 無門曰、且道、趙州頂草鞋意作麼生。

 若向者裏下得一転語、便見南泉令不虚行。

 其或未然、険。

 頌曰

 趙州若在 倒行此令

  奪却刀子 南泉乞命

 

 【訓読】

 無門いわく、「しばらくいえ、趙州草鞋を頂く意そもさん。

 若ししゃりに向って一転語を下し得ば、便ち南泉の令、みだりに行ぜざりしことを見ん。

 其れあるいは未だ然らずんば、険。」

 頌にいわく

 趙州若し在りしなば、さかしまに此の令を行ぜん。

 刀子を奪却して、南泉も命を乞わん。

 

 

この部分です。

無門はいいます。「何はともあれ、趙州が草鞋を頭にのせた、意味は、何であるかを言ってみよ。もしそこのところをきちっと示す一語が提示できたなら、南泉のやったあの酷い仕打ちもまんざら無駄にはならぬであろう。しかし、もし、できぬとなれば、これは、危ういことだ。」

頌にいわく

かの趙州がいたならば、やり方すっかり逆だった。

刀を奪い去られては、南泉さえも命乞い…・・

さあ、貴方の答え、すみやかにEメールでおくりなさい。最初の関門です。

 

 

 

 


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