南泉斬猫

 
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 南泉山の普願禅師(唐代)のもとに、多くの修行者が集まっておりました。雲水の寝起きする僧堂が東西に分かれていました。

 或る日の事、東西両堂の雲水達が、一匹の猫をつかまえて、この猫にも仏性が有か否かについて論を戦わせておりました。お釈迦様が悟りをお開きになられた時、[一切衆生恣有仏性(生きとし生けるものは、皆ことごとく仏性を有している)]と、獅子吼(ししく)されたので、「この猫にも仏性が有る」と、東側が主張すると、「この様な畜生に仏性などあるものか」と、西側が反論。「有」「無」の論争は、なかなか決着がつきません。

     騒々しいので、南泉老師が出てきました。そして争う両者の中に入り、左の手で猫の首をつかみ、「道(い)い得れば助けよう、道い得ずば斬る」と、怒気を含んだ言葉を放ちました。見れば、右手に剣を持ち今や斬らんとしているではありませんか。

 すぐれた禅の師家は、日常の事象に即し指導を行います。「道い得ればよし」、何を答えればよいのか? 道にかなった答えをすれば猫は助けるという。雲水達は気をのまれ、水を打ったように静まりかえってしまったのです。南泉の剣は、無惨にも猫を斬り捨ててしまいました。

 夕方、高弟の趙州和尚が帰って来ました。南泉老師が、猫を斬った次第を話すと、趙州和尚は、何とも言わずに、履いていた草履を脱いで、それを頭の上に載せて出て行きました。それを見た南泉老師「趙州さえいれば、猫を斬らずに済んだのに、かわいそうな事をした」と合掌したのです。

 猫に仏性が有るのか無いのかという事は、右だ左だと、解決のつかない二見対立。南泉老師は、有に偏せず、無に片寄らず、理論を離れ、感情を越えたとらわれのない世界を、一刀両断によって示されました。趙州和尚は、相対的二見(草履)を絶対の世界「頭」に止揚する行によって示されました。

 

 皆様は、どのような答えを出されるでしょう。古来、頭でわかり理解したつもりになった人は、多くいました。真に役立つ行として答えきれた人は少なかったようです。わかる事と、できる事は、別問題。わかってもできないからこそ、稽古修行が必要なのです。稽古修行とは、古えをおもいはかり行ずるを修める事を真意としているのです。これこそ、日本文化特有の感覚であり、練習やトレーニングとの基本的違いなのです。どうぞ、稽古修行に御励み下さい。






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